振り返れば「感謝」

六郷登山協会 会長 畠山

 初めての山は夏の秋田駒、雨に降られて散々だったけれど印象は深い。13歳だった。真夏に沢を埋める大きな雪渓には本当にびっくりした。東京に暮らした6年間はまさに山三昧だった。初めて登った北アルプスは、日本海から歩いて稜線にたどり着き、白馬岳まで縦走した。栂海新道は未だ貫通しておらず、開策中の小野健さんと出会い、一晩を過ごした。藪を漕ぐ毎日だった。昭和45年の夏である。絶景黒部のトロッコ電車にも乗った。秋には沢登りを経験し、冬からは岩登り(今風に言えばアルパインクライミング)を始めた。三ツ峠山は富士山の絶好の展望台で、東日本最大の岩登りのゲレンデである。夜に新宿を発ち、大月で富士急に乗り換える。三ツ峠駅からは機織機械の音がする家並みを抜け、途中で仮眠をして朝には三ツ峠山に到着する。3年ほどで、ほとんど全部のルートを登り終え、ほとんどリードで登れるようになっていた。冬の南アルプスから見る富士山は大きく、美しく、神々しかった。飯豊の沢登り、丹沢の沢登り、穂高での岩登り、八ヶ岳の沢登りと、普通の縦走路はほとんど歩いていない。谷川岳の一ノ倉やコップ状岸壁の登攀も実に楽しかった。剱岳での岩登りも忘れることは出来ない。妻と登った八ツ峰や六峰フェースとチンネは存分に剱を楽しんだ。岩登りでは初登攀(過去に記録のないルートの登攀)もした。北アルプスの北はずれにあるヒスイで有名な山である明星山の、最後まで残った西面の真ん中のルンゼ(中央ルンゼと言っておこう)を登った。頂上までほとんど真っ直ぐで、5月の晴天の頂に立った。感動だった。国内の大きな壁がほとんど登られ,大迫力の南面は当会の千明さんや福田さん,これも先輩の吉田さんたちがすでに記録を残して久しかった。残り物には福がある的に石灰岩の登攀を楽しんだ。

 六郷に帰ってからは必然的にこの会にお世話になった。初年は後のツルから白糸の滝を往復し、秋には薬師岳に登った。広大な仙北平野を眺め、諸先輩と「宝風」の話をした。生保内節に出てくるあの宝風である。六郷登山協会が出来て間もない昭和55年の9月だった。その後の私の活動は六郷登山協会とともにあり皆さんご存じのとおりである。

 一口に50年と言うが長い年月である。沢山の先輩たちに恵まれた。特に東山では教わることが多く、地形のこと、植生のこと、歴史のことなど、本では紹介されていないことばかりだった。その中にあって田口初代会長や細谷さん宇佐美先生の存在は大きく、私たち後輩をのびのびと育て、活動を支えてくれたと思う。秋田荷方節(かけ唄)は田口会長が黒森山でよく歌ってくれたし、会運営と遠征時会計のやり方は細谷さんが教えてくれた。宇佐美先生には地形の事、天気図の事、登山の基本などを指導して頂いた。橋本さんも忘れることの出来ない先生だった。今の私たちの在り方はこの人たちから伝授されたと思う。夏の日本アルプス詣は30数回となり、今や恒例行事となり、その間、山中での大きな事故もなく続けて来れた。運が良いのか、精進の賜物か。しかし会員の努力や相互理解そして会員家族の理解・協力が何にもまして大きい。また、行政当局の皆さんもご理解があり、多大なご協力を頂戴した。

 改めて、とても幸せな時間を過ごさせて頂いた。関係者に対し心から感謝申し上げ、50年の区切りとしたい。