黒森山、我が心の山
岩屋 朝徳
登山協会の会員ではあるが、黒森山以外にはほとんど登らない会員である。黒森山は子供のころからよく耳にし、毎日眺めていた山でもある。六郷東根に知り合いも多く山の言い伝えや歴史を聞く機会も多かった。ごくごく身近に感じていた山であった。
黒森山は奥羽山脈一座である。山並みは広く深い。山の向こうにも村はある。山の中にも村がある。人が住めばそこに道はできる。黒森越えの道は古代からあった。人々はその道をお互いに交流しながら獲物を交換し、作物を交換し、情報を交換していた。人々の行動範囲は我々の想像以上に広く、彼らにとって山は障害ではなかったようだ。
黒森越えの道、黒森古道にもいろいろな歴史や言い伝えがある。平安時代に坂上の好陰が反乱を治めるために通った「りゅうが道」がここだという言い伝えがある。「りゅうが」という地名があることから真実だと思う。江戸時代には「背負子商人」や「病気治療の湯治人」、「生活用品の売買」、「嫁、婿のやりとり」など、人通りが絶えなかったという。御役屋日記にその一部が記録されている。明治時代には、岩手県との交流をさらに深めるべく畠山久左衛門がこの道を拡幅整備した。その道を、出羽を旅した正岡子規が通った記録もある。時代によって変化はあるがこの山道をいろいろな人が通り、いろいろな歴史を積み重ねてきた。この道は農民の生活の道でもあった。
黒森山には、沼と新田開発の歴史もあった。山の中腹に「町民の森」があるが、ここには昔から男潟と女潟と呼ばれる二つの沼があった。泻尻沼と呼ばれていたが、西暦1683年(天和3年)、この沼に堤防を築いて貯水池とした。その水を荒川に加水してその分水堰によって天神堂方面に新田を開発した歴史がある。この時、天神堂に「泻尻新田村」がつくられた。その時の地名が今でも天神堂に小字名「泻尻」として残っている。
黒森山は雨乞いの最終的な場所でもあった。各村々で雨乞いをしても効き目がなかった場合、周辺の全ての村々の人が集まって雨乞いをする場所であった。農民の祈りの場でもあったのだ。
登山協会では、「失われた黒森古道」を探す活動を令和元年に始めた。昔の形が残っている部分を全て探し当てるのに三年かかったようだ。今もその維持活動は続けられている。高齢者ながらこの活動に誘っていただき、ほんの少しではあるがお手伝いできたことが、最高の喜びだったし、良い思い出になっている。
小学校、中学校の校歌でも歌ってきたし、八十年間まいにち見続けてきた「黒森山」は、体の中に染み透っている。我がふる里の山であり、我が心の山である。黒森古道や黒森登山道の整備にたまに呼んでいただくこと、黒森の歴史調査にお邪魔することが、最近の無上の喜びとなっている。年齢と体の許す限り愛するこの山と共にありたいと思う。