私の青い山脈50年
佐藤 欣一
2022年5月25日、水曜日の午後。快晴。六郷字馬場。
小松事務局長に、6月の黒森山の山開きに協会員として参加したいと無理やり頼み込んで六郷登山協会に入会した。何故か一人では無く、大勢の人達と一緒に奥羽山脈に登りたかった。
高校に入ってすぐの地理の授業で、若い担任の先生が「あの山脈の名前は何というか」と問うので、「奥羽山脈」と答えたら「あれは、青い山脈と言うのだ」と教えられた。15歳の春。
青春の始まりだと思った。そして山岳部に入った。
中学時代に一人で乳頭から雫石まで歩く足だったので、自信はあった。新入生歓迎登山や春山合宿は、もちろん雪の青い山脈。雪中テント張り、ピッケルを使った滑落阻止の練習。下山は走るのが我が校の伝統だとか言われて、左右と後ろに付かれて、転がるように雪上を降りた。夜の食事の時は、テントの奥中央には前年までの部長先生(他校に転勤した六郷のU先生)が鎮座しOB達と酒を酌み交わして居る。我々二人の新入生はテントからはみ出して、カレーの残りを食べながら雪で食器を洗っていた。山頂から学校へ通ったこともあった。普段はテント張りや地図読みの練習、加重した先輩を背負って校舎内の階段上り、用具磨き。3年生が2人、2年生が6人、新入生が2人。畳2枚を縦にした位の広さの山岳部部室で私の青春と本格的な山登りが始まった。
と、思っていたのに、夏休み前に退部。一緒に辞めたもう一人は、県南最大の中学校で生徒会長を務めバスケ部主将として活躍し理数科に入った、文武両道で且つ人格者だったので、退部理由は、私の軟弱な心身だけが理由ではなかったかもしれない。
最後に同級生の女の子と二人だけで御嶽山に登って、青い山脈と別れ、学校も辞め、一人、国鉄急行津軽に乗って上京した。
そして、10センチの真赤なピンヒールの靴をはいたオネエチャンと登れるような山にしか行かないと決め、深夜に青山(港区)辺りをウロウロする位で、週末新宿駅の地下道でアルプスへ向かう夜行列車を待つ多くの登山者の列を見るたびに、山登りへの拒否反応でジン麻疹が・・・残念ながら出なかった。
その後、東京でも有名な大学病院で、存命告知を受け、○○なら故郷でと帰ってきた。それは、あの青い山脈と別れて上京してから、四捨五入するとちょうど?50年、六郷登山協会の50周年と合わせたようだ。
奥羽山脈はたまに帰って来ても愛憎が重なってまともに見ることもなかったけど、今は何事もなかったように、ただそこにある。ただそこにあるだけで、話しかけてくれるわけでもなく、怒っていることもなく,微笑んでくれるわけでもない。50年の時間など何もなかったように、ただそこにある。